Canis No13.弘前市中畑家所蔵 Canis hodophilaxの頭骨標本

『初めに』ニホンオオカミの研究史を紐解く時、斉藤弘吉氏がその先駆けである事に異論を挟む者は居ない。時代が大正から昭和に移って間も無い頃、在来日本犬の保存と並行してその研究が始まったのであるが、最初に手がけたのは国内に存在しているであろう標本の発掘蒐集であった。その当時、ニホンオオカミの頭骨標本は、ロンドンに2例、ライデンに2例、ベルリンに2例と、存在の全てが国外の博物館であった。氏の代表的著書『日本の犬と狼』にてその苦労の程を伺い知ることが出来るのだが、氏は資料及び標本を求めて国内各地に足を運んでいる。四分の三世紀以上の時を経て、今私達は容易と云えるくらいに標本を目の当たりにする事ができるようになったが、国内で最初に確認された標本が、実はこの『中畑家』の標本なのである。
 『由来』斉藤弘吉著「日本の犬と狼」239頁の文面を持ってその由来とする。内様は下記の通りで、調査計測は昭和11年5月16日に行なわれている。
  中畑家のものは先祖が津軽の東目屋村字中畑におられたときから伝わっているという。津軽藩主に軍資金を献上したので弘前城下に邸を賜り名字帯刀を許されて、村から弘前に移居したときの当主から現当主までは二十一代目にあたり、弘前の当主の三百五十年忌を四、五年前行なったというから、この狼頭骨は最小限度三百五十年以上になる。まず四百年前ぐらいと推定するのが適当かも知れない。多少歯牙の紛失や、後頭部の小破損あっても割合完全である。古色蒼然ぴかぴか光るくらいで、おこり(マラリア病)の時、病人が触るとなおるといって借りにくる人が多かったものという。歯牙の摩滅のないことから判断すると、若い狼らしい。ちょうどベルリンの標本と同じくらいの大きさで、頭蓋基底長185ミリ、最大頭蓋長は後頭結節端の小破損を補って約211ミリ、上裂肉歯22ミリ、下顎骨長155,5ミリ下裂肉歯25ミリで、ベルリン博標本のネアリングの測定の185ミリ、213ミリ、22,5ミリ、157ミリ、25,5ミリにそれぞれよく似ており、上、下裂肉歯以外は、大英博の秩父産のと大きさもほぼ同じである。
 『所見』標本の外面的特徴、側頭窩の神経孔の数、骨口蓋後縁中央部の湾入が顕著である点等、ニホンオオカミ頭骨の多くに見られる特徴を有している。尚、昭和三十九年雪華社発行 斉藤弘吉著 「日本の犬と狼」中の文面に『同日中に弘前に参りまして、中畑英七氏古山勝太郎氏を訪問、所蔵の日本狼頭骨を拝見致しました。これは青森の犬友の林氏が収蔵者を発見されたもので御一緒に上るつもりでしたが都合悪く、私一人参って拝見したのですが、いずれもその下第一後臼歯長が中畑氏のものは二五粍余、古山氏のものは二七粍というように立派な日本狼頭骨で貴重な資料と判りました。只今拙宅に拝借してありますが、この日本狼頭骨標本は今日まで、ロンドンの大英博に二個、ベルリンに二個、ライデンに二個より他にないとされておったもので、我が国の狼の頭骨が我が国にないという研究上不便で困っておった次第であります。外務政務次官の猪野毛利栄さんの御力添えで、目下その複製の入手を、ロンドン、ベルリン、ライデンそれぞれに外務省文化事業部から交渉して貰っているところでありますが、こんど弘前から二個発見されたことは学界のために大変ありがたいことと存じます。いずれこのことは詳しく報告致すつもりであります。』と記されている。

『謝辞』中畑家の頭骨標本は、昭和39年雪華社発行の斉藤弘吉著「日本の犬と狼」に記載されて居るものの、調査は昭和11年5月16日と古く、凡その計測値以外知る事が出来なかった。この標本が発見されたことがきっかけで、多くの標本が次々と見出され、しかもほぼ完璧な状態で保存されているとの文面だった為、事の他興味をそそられて、何とか実見の機会を得たいと思って居た
  津軽地方には全く伝手の無い私は、電話帳にて弘前市の中畑性を片っ端からあたり、その存在を確認してみたのだが、方便の壁に阻まれ断念せざるを得なかった。会津地方で同様の方法を取った時、私の話す越後弁で何とか意思の疎通が図れた為、ある程度自信が有ったのだが、津軽弁とでは余りに距離が有り過ぎていた。最終的には断念の二文字が浮かんで来る状態に陥って、無い知恵を絞って思い浮かんで来たのが、弘前市教育委員会への問合せであった。殆んど“駄目で元々”の気持であった為、問合せをした事さえ忘れようとした95年7月、市の社会教育課の油川亜夫氏から調査中との葉書が届き、一抹の期待を持つ事となった。それから又暫くして、所在判明の知らせを戴くに到った。氏の話に依れば、半ば諦めかけた頃、時々立ち寄る書店が中畑性で有る事に気が付き、何か手がかりを得られたらと話した所が、当事者だったと云う笑い話付きだった。中畑家は弘前市役所から歩いて間もない距離だったのだ。
私はニホンオオカミの勉強を始めてから、幾多の行政機関と話をする機会を得て来た。しかしその多くは喜びを得るものでは無かった。文化財保護に対して、行政への失望が支配的であったとさえ云えるものであった。その観念は弘前市教育委員会社会教育課の油川亜夫氏の一葉の葉書が見事に拭い去ってくれた。そして中畑家の頭骨標本が再び私達の目に触れる事となった。

この紙面を持って、油川氏に深い感謝の念を捧げるものとする。