ニホンオオカミ考

昭和22年の夏頃から、当時の和歌山師範学校の博物標本室の整理を私ははじめた。(県立の師範学校から国立の専門学校としての師範学校へと戦時中の昭和18年4月に昇格移転されたものの、教室内外の整備はほとんどなされていなかった)。古い学校であるだけに、また、私の前任者には優秀な人々が代々おられ、県立時代の学校内では有力者であった関係から膨大な実物標本を蔵していた。その中には前任教師達の巧みな手作りの剥製標本も多く、また、標本簿に記載されていないものも多かった。戦争中という時期をはさんでいた関係で、惜しい事に生物標本は管理不十分ために破損、虫害による破損が多く、また、時代の新しい生物学の講義の資料としては縁遠いものも相当あった。当時の師範学校会計課長氏の職務上の迷惑を無理に押して大整理を私は敢行した。
 ある日、標本棚の上に横ざまになってほこりを浴びている剥製標本がとり出された。一見イヌより大きいイヌの剥製標本に見えた。板の上に四足を不完全に太い針金で結えて据えつけられていたこの標本は、番号も名札もなく、ほこりをはたきおとしてみると、普通のイヌとはやや趣を異にした毛並み、容貌の標本である。多少、腰砕けの形で立っているが技術的には上手なものでないことがわかった。そして、不思議に感じられたことは、標本戸棚の中に大切にしまわれていた他の鳥獣の剥製標本は、防虫剤の不足でボロボロに虫害を受けているのに較べて、戸棚の外でほこりを長年浴びているこの標本が逆に安泰であるということであった。標本虫(ヒメマルカツオブシムシ)は防虫剤の名残の匂にひかれて戸棚のなかへ入ってきて産卵するのだろうか。
 当初はそれ以上に深い感興もなく、他のいくつかと一緒に継続保存の方にまわしておいたものであった。標本室の大整理も終えてある日、もう一度見直してみると、いわく有りそうな標本に思えるが何分にも記録のない無籍の標本であり、私のボンヤリとした記憶のなかにある上野科学博物館のニホンオオカミ(ヤマイヌ)の標本よりも大きいな、という程度でそれもすぐ忘れてしまっていた。
 そのうちに、「あるいは・・・・」という気持も出てきて、師範学校の古い卒業生にあたってもみたが要領は得られなかった。元来、私は動物学は専門外であるので、この方面の大型の動物についていたって造詣の深い学友、故高島春雄氏(当時、氏は山階鳥類研究所員であった)にたずねてみた。同氏からのはじめの返事は問題にされないものであった。しかし、重ねて私が翌23年の秋に手紙したその返事には、私の申出に対して半信半疑で体色、体の細部測定の注文がきた。そこで氏の注文に応じての測定数字と写真とを折り返し送ったものである。東京のこの方面に関心をおもちの学者間では私の返事の内容が問題になったようで、この報告(私の返事)をもとにして、昭和24年2月、当時上野動物園技師の福田信正氏が雑誌「採集と飼育」第11巻2号に「再びヤマイヌの収蔵標本について」の中で、本標本が日本で第3体目の「ヤマイヌ(ニホンオオカミ剥製標本)」として発表された。この方面の権威であった故斎藤弘吉氏(当時日本動物愛護協会理事)も私と何度か熱心な書面の往復ののち、翌昭和25年2月に来学され、一見されるや氏は「これは大きい・・・これは立派だ・・・・これはよかった・・・」と、はじめて専門家の目でこの標本がまぎれもないニホンオオカミであることが認められた次第であった。西日本産のものとしては唯一のものであり、他の2体(1つは、上野科学博物館の福島県産、他の1つは、東大農学部所蔵の岩手県産)より大きいことも確認された。(ちょうど、新制大学として発足当初の時代であって、斎藤氏はこの標本が無籍であることを知ったとき、私にこれを200万円で譲りませんか、その金をアンサンの教室の整備にまわした方が・・・といわれたことであった。当時すでに200万円の相場?のついた標本は、昭和28年になってやっと今日の硝子ケースを作ってもらって大切に扱われるようになったが、やっぱり専門の保管方法の完備したところに保存すべきであることを痛感している)。

標本の来歴

 このようにしてほこりにまみれて顧みられなかった本学の標本が、学界の珍品としてみとめられたものの、前述のようにこの標本に関する記録のないために、産地、捕獲年代、入手経路などは不明とした私の許には、いろいろの未知の人から、この1つの標本に対して、その捕獲地、年代、その素性、その来歴等々がいくつも持ち込まれた。どれを信じてよいか迷ったものである。学校の古い書き物を探してやっと校友会誌の記年号にあたった。
大正3年(1914)の県師範学校創立40周年記年号の中に、記念祝典の一環として博物教室の標本展示をしたことが記録されており、そのときの展示標本のなかに「ヤマイヌ」も参加していたことが判明した。少なくとも、この当時は「ヤマイヌ」と称していた標本があったわけである。次の大正13年の創立50周年記年号、昭和10(1935)60年周年記年号には、ヤマイヌの記録はない。その後、卒業生である故森慶三氏の昭和36年7月5日付の書簡を間接に入手したが、その中に、例のヤマイヌの標本は明治37、38年(1904-5)ごろ当時の師範学校の教頭中島久楠教諭の作で、産地は奈良県の十津川の深山である云々とある。これがしかし比較的正確な記録と思える唯一のものであって、書簡はさらに続いて、「十津川で獲れたものでこれを当時の中島教諭が手に入れて苦心して作成した」というのである。「そのころ、和歌山市内で鷄肉屋を営んでいた岩頭という力士あがりの人が手伝って、仕上げは京都の島津製作所へ依頼された」と付け加えられてあるが、四つ足の不自然なとりつけ方、体後部のヘッピリ腰なところなどから私には専門的な剥製技術者の手を経ているとは思えない。

 標本について

 本学の標本は、巳述の経緯でニホンオオカミと認められたものの、下手い技術で作成されていて保管も十分でなかったため、精悍な猛獣としての性格、風貌はほとんどうかがい得ない。体毛は全体にやや淡い黄褐色で、黒紫色のサシゲを混在しており、とくに背甲部、頭部、首のまわりに多い。ヒゲは長くない(4,5cm)、くびの部分にはタテガミ状にはなっていない。
  当初測定して発表(1950)した私の数字をあげてみると
     上顎第4前臼歯(P4)               歯長     21~22mm
  下顎第1後臼歯(M1)               歯長     27~28mm
  体高                                       52.5cm
  体長(前胸より臀端)               70.0cm
  尾長                                      35.0cm
  耳介長                                     7.0cm

 標本の作製技術は、専門家でない人の作成の故に拙劣で、四肢の位置も不自然である。今日までの保存状況も完全でなかったので若干ほこりを浴びてはいるが、毛色などの特徴的な色彩などはよく保存され、写真でみるように、吻は細長く、耳介は短く直立し、差尾で性別は♀、全体は淡い黄褐色で黒紫色の刺毛を混布する。口角部にある長さ3cmにわたっての黒紫色部は顕著で、前肢の前面にも、黒紫色の刺毛はチョコレート色に長く細く(12~13cm)顕著にひろがり、全体は直滑毛で冬毛と考えられる。
 これは、昭和25年(1950)に和歌山大学学芸学部紀要第1号に登載した私の報文の一部である。尾は現在25cmであるが、これははじめ35cmあったものを発見されてからガラスケースに格納する(昭和28年)までの間に折れて紛失してしまった。耳介は7cmと報告したが、その後よく調べてみると鋭利なハサミかなにかで切りとったアトがみられる。従って実際はもう少し長いはずである。これも、魔除けかなにかのまじない(禁厭)に使われたのかも知れない。
 オオカミの解剖学的の特徴は頭骨とことにその歯にあるとされている。
                                                 
                                                 上顎   下顎
                            門歯     3対   3対
                            犬歯     1対   1対
                            前臼歯    4対   4対
                            後臼歯    2対   3対
と計42枚の歯があり、なかでも、上顎の第4前臼歯(P4)と下顎の第1後臼歯(M1)の大きさが(大きいことが)決定的な特徴とされている。
 直良博士の測定された江戸時代から明治にかけての9頭のニホンオオカミの上顎第4前臼歯(P4)の測定価は、最小20,2mm、最大22,6mm、平均21,1mm、下顎第1後臼歯(M1)では最小24,7mm、最大27,5mm、平均25,5mmとあり、本学の標本のものは上記に較べると大きい方のものであることを示している。
 今泉博士によると、大陸のオオカミには前肢部前面に黒褐色のまだらがあるとなっているが、本学標本ではチョコレート色の濃い毛が、巾2cm、長さ12cm(右肢)、14(左肢)ほどにわたっている。
 次いで特徴的なのは、口角から外に向けて2,5cmの巾で5cmほどの長さに及んでいる黒い短いほほひげである(写真)。これは他のオオカミに全くみない特徴のようである。
シーボルトの日本動物誌のニホンオオカミにも、直良博士の大著に出ているエゾオオカミのきれいな彩色図にもない。新旧の諸種の図鑑類その他をみても、一般のオホカミにもニホンオオカミにもこれは図示されていない。ただ、大阪市立大学探検部発行(1961)のフィールドNo.5のなかで鈴木治氏が、実際にオオカミをみたという奥吉野の人々の話を載せているが、そのなかで「真黒いヒゲが口のはしから耳まで続いていた・・・・」と話した二人の話をとくに紹介している。(翌年(1962)の大阪市立大学探検部報2号のなかにも同氏はこのことを記録しておられる)このことは、本学標本のこの部分の黒い毛の色の具合とともに気になるところである。
 前肢には5趾、後肢は4趾で前肢の第1趾はケヅメとなっていることは当然のことであるが、もちろん、蹼はない。爪は前肢の方のは後肢のより大きくて長いが、一般のイヌの爪と較べてみてその体躯の割合からみて格別に大きいようには思えない。熊楠翁が指摘しておられるように、樹皮や木にかかり得るものではない。
 昨年の暮(1974.12.24)に、和歌山市の中村外科医院で中村了生院長のご厚意を得て、本標本のレントゲン写真をとったことがある。この標本はその結果、頭骨と四肢の先端部と尾だけがほんものであった。ある専門家はその写真をみてさすがに豪快な頭骨ですな、と感心しておられた。