『由 来』 秩父市出身で、冬虫夏草の研究に於いて世界的権威である故清水大典先生が、ニホン オオカミの研究にてもその先駆け的存在で有る事は、意外と知られていない。数多い著 作物の一つである「奥秩父の自然」(ユスラウメ特集号 《奥秩父》)でもそれを知る事が 出来る。先生はその文中で、奥秩父地域に棲んでいたニホンオオカミは、大小二型のも のがあったと述べている。その一つは「毛が灰色に黒ずみ形の大型のもの」であったが、 他の一つはそれよりは「体の小さい体毛の灰褐色系」のオオカミであった、と。 前者の大型オオカミは、明治以前に奥秩父では滅亡したらしく、後者は明治の中頃 (甲州地方では明治末年)まで棲息していた、とも。それらは全て、自らが足を運んで知 りえた情報であって、私のニホンオオカミ研究のスタンスと似通っていた為、非常に身 近に感じる所であった。私ごときが、とも考えるものではあったが、失礼を省みず幾度 と無く交わす事が出来た文面の中でもそれらを伺い知る事が出来るので、その一文を 紹介する。 『・・・かえりみますと私が狼の伝承に集中するようになったのは昭和十年代で、 当時幻と目されておりました「ソロッポ」(1本角の鹿)やオコジョにまつわる口 伝なども含まれておりました。それが日本狼1本に絞りこむようになったのは敗戦 二十年からのことで、まず足元の日本の自然の見直しと云う目標を掲げ、狼を中心 | |
に動物、植物、菌類の再調査に取り組み、 日本狼ではまず地の利(狼の適棲地)のよい 秩父山地を囲む群馬、長野、山梨、東京都下 をフィールドに食糧事情の悪い極限のなか で煎り大豆をザックに詰め山合いの部落或 いは 一軒家を訪ねて歩きました。 特にご老人の所在に重点をおきました。従 って上黒平の西山家も、都下湯久保の市川家も 当時実施した調査行で初めて明るみに出たものでした。なお当時蒐集した狼にまつわる様々な伝 | |
承は相当な量で、直良(信夫)先生から在りし日の清水大典先生 | |
一日も早い出版をうながされておりましたが、残念なことに引越しなどにまぎれて資料が所在不明となってしまいました。』 文中の西山家とは甲府市西黒平のニホンオオカミ頭骨所有者、後者は都下桧原村湯久保 の市川家の事で、いずれも清水大典先生が標本発掘をされたものである。(市川家につ いては、校倉書房刊、直良信夫著、日本産狼の研究“狼の乳を飲んだ貞次郎老人”に詳しい) 文面を交わす中で東北旅行の折、米沢市の清水家(米沢市東2-3-72)に立ち寄った 事がある。上記市川家の頭骨標本を(上顎吻端部)清水先生が所有しており、其れを実見 したかった為である。限られた時間の中で標本を拝見し、様々な体験談を聞いていたが、 脳裏にある不安が過ぎるのを隠せなかった。先生も私の胸中を察したのか、その標本の行く 末を案じている旨のお話をされ、私は私で無礼を承知で、標本の落ち着き先として出所先 近辺であるべきとの考えを述べさせて戴いた。 そんなプロセスの中で、ご子息から先生が他界された事を知らされ、日々多忙の中でも 頭骨標本の行く先を少なからず案じていたところ、秩父市在住で先生の実弟である清水六郎 氏を通して、秩父宮記念三峰山博物館に寄贈されるとのお話を戴く事となった。十数年前 米沢市の清水家に伺った際は、上記博物館とは全く無縁とも云える立場だった事を考える時、 私個人としては、目に見えない強い何かを感じざるを得ないのである。 『所 見』 校倉書房刊、直良信夫著、日本産狼の研究187頁「東京都奥多摩御前山麓採集ニホン オオカミ♀の吻部残片」を参照願いたい。 |