Canis.No24 長野県天龍村 オカタの山ノ神の頭骨(根付け)

『初めに』
長野県下で出された、ニホンオオカミに関する文献に登場する「オカタの山の神」の頭骨と、(例えば、松山義雄著“狩りの語り部”、“伊那谷の自然第52号”等)直良信夫著“日本産狼の研究”に掲載された頭骨が同じ物とする事に、私はかねてから疑問をもっていた。
長野市立博物館で、オカタの山の神の神体として秘蔵されて、通常見る事が叶わないと思われていた標本が展示される、と言う情報の下、許可の中調査に赴いたのだが、下額の展示はなされておらなかった。学芸員の畠山氏に伺うと、私の予想通り、天龍村向方のオカタの山の神の神体として秘蔵されている頭骨は、元々上顎のみの標本で、“日本産狼の研究”に掲載された頭骨とは、別の頭骨だと云うことがこの時点で明らかになった。上記オカタの山の神の標本は、今泉吉典博士の鑑定の下、二ホンオオカミの上額頭骨として、同定を受けたのであるが、直良信夫著内の頭骨は、何処に有るのだろう・・・?と、新たな興味を抱くところとなり、写真撮影者として日本産狼の研究に記されている向山雅重氏(未亡人)、千葉徳爾氏等に、その疑問の程を投げかけた。
非常に大きなエネルギーを傾けたのであるが、残念ながら現在に至るもその所在は、明らかになっていない。向山雅重氏が直接写真に収めたと記されている以上その頭骨はどこかに存在している訳で、その「直良頭骨」の所在が明らかになって、長野県下四例目の標本となる日が早く訪れるように!と願うのは私だけではないと思えるのである。

『由来』
龍村坂部の「熊谷家伝記」に依ると、応永元年(1394)、近くの向方を開拓しているとオオカミが現れた。それを殺したら良く無い事が続いたので、そのオオカミの首を祀ったら、凶事は治まったのでそれ以来御神体となった。オカタというのは、この地方を切り開いた主である村松家のことで、村松家ではこの守り神である二ホンオオカミをお犬様と云って祀っている。近年になり、村松家は向方を離れた為、御神体とその社は橋爪家が管理する事となっている。

『所見』
少々長い文面では有るが、非常に重要な観点が記されているので、今泉論文を記載する。
A) Pocock(1935は大英自然史博物館所蔵の新旧両世界産の狼類(ニホンオオカミやホッキョクオオカミを含む)を調べ、それら全てをオオカミcanis lupusの亜種と判定した。殆どの専門家は、この見解に従っているが、私(1980)は少なくともニホンオオカミCanis hodophilaxはタイリクオオカミC.lupasの亜種ではなく、それぞれ別の種だと思うようになった(その後ホッキョクオオカミC.Arctosも同様に別種と考える様になったが詳細は未だ解明されていない)。それは、旧世界と新世界に分布するタイリクオオカミの亜種の頭骨基底全長CBL平均値は生息地の一月平均気温Xと相関して変化し、回帰方程式Yc=a+bxで示す事が出来る直線を形成するのに、ニホンオオカミとホッキョクオオカミはこの回帰直線に一致しないからである。鼻骨率(鼻骨長÷頭骨基底全長×100)平均値でも同様な現象が見られる。旧世界のタイリクオオカミは今から約80万年前に現れたが、新世界へ進出したのは約40万年前である(Kurten and Anderson.1980)。したがって両大陸の個体群は殆ど40万年間も隔離されていて交流が無かったと思われるのに、頭骨基底全長と鼻骨率の回帰方程式のaとbの値は全く変化していない。少なくともこれら二つの形質を支配する遺伝子は進化を停止していたようである。ところがニホンオオカミとホッキョクオオカミは、頭骨基底全長と鼻骨率がタイリクオオカミと違い、これらに関連した遺伝子が違うように見受けられるのである。私がこれらをタイリクオオカミとは別種と考えたのはこの他、耳介と後足が短いことも考慮した結果である。
『オカタの山の神の頭骨』はニホンオカミである。上記のようにタイリクオオカミでは頭骨基底全長平均値は生息地の一月平均気温が低くなるにつれてゆるやかに大きくなり、鼻骨率平均値は反対に気温が下がるにつれて次第に低くなる。したがって気温0度前後の本州に生息する狼がタイリクオオカミの単なる亜種に過ぎないなら、その鼻骨率(N=12)のM±SDの範囲(68%の個体が含まれる)は、気温-10度前後の朝鮮半島からチベットまで分布するチベットオオカミC.l.chanco (N=4)の40.6~42.8(M±SD=41.7±1.1)と、気温+10度前後のインド北部に分布するインドオオC.l.pallipes(N=8)no43.1~46.1(44.6±1.5)の中間でなければならないのに、実際は36.3~38.9(37.6±1.3)で、どちらよりも低い。
このようにニホンオオカミは鼻骨率だけでもタイリクオオカミの全ての亜種と区別できる。
(信頼限界は50%+34.1%=84.1%)。なおアメリカのタイリクオオカミで1月平均気温が日本に近いのは-5度前後のモンタナ、アイダホ、ワイオミングに分布するモンタナオオカミC.l.irremotus であるが、これの鼻骨率は40.6~43.6(42.1±1.5)とニホンオオカミより遥かに高く、チベットオオカミにほぼ等しい。なおニホンオオカミとチベットオオカミの鼻骨率の違いは、その差異係数CDから推定すると両個体群の約95%の個体をこの形質で選別できる程度に達している。差異係数CD(Mayr他、1953が提唱)とは「平均値の差」と「標準偏差の和」の比で、この場合は平均値の差が41.7-37.6=4.1、標準偏差の和が1.1+1.3=2.4であるから、CD=1.7となり、二つの集団の重なり合わない部分の面積が95.5%以上に達することが推定される。
 このようにニホンオオカミはタイリクオオカミの亜種ではなく別種であるが、その識別形質として有用なのは私が計測した部分に限ると鼻骨率しか見当たらない。そこでオカタの山の神の鼻骨率であるが、写真から計算した限りでは36前後となる。この値はニホンオオカミの標準的な個体が含まれるM±SDの範囲にきわめて近く、地域的に最も近い朝鮮半島に分布するチベットオオカミとは顕著に違っている。したがってオカタの山の神はユーラシア大陸とアメリカ大陸に広く分布するタイリクオオカミの亜種ではなく、明らかにニホンオオカミである。
B) 側頭窩の神経孔が左5個、右が6個の件。ニホンオオカミにもこのような例が頻繁に見られる。(タイリクオオカミでも同様)。ところがイヌ(日本犬を含む)では、私が調べた限り常に5個であった(故世古氏が日本狼の血が混じっていると称していた1個体だけは6個であった)。したがって右が6個あっただけで「オカタの山の神はイヌでないと考えてほぼ間違いない。なお神経孔は他のイヌ科動物(キツネ、タヌキ、コヨーテ、ジャッカル、ドール等)では私が見た限りでは常に5個で、原始的な状態を示すと思われる6個型が不思議な事に最も進化度が高いとしか考えられない狼にしか現れない。Mivart(1890),Pocock(1935),安部余四男、平岩米吉、斉藤弘吉、直良信夫等の諸氏が狼のこの特徴を無視したのは、イヌ科全体を対象にすると6個型が極めて稀なためかも知れない。私はイヌ科動物の頭骨382個以上(大多数は大陸狼)でこの孔を調べたが、怠けていて未だ詳細を発表していない。
C)直良信夫著「日本産狼の研究」(1965)、145頁「長野県下伊那郡天龍村神原向方地方産の頭骨」に記録された狼頭骨「直良頭骨」と「オカタの山の神」の関係。私の率直な感じではこれはどうやら別の個体のようです。それは頭骨を真上から写した写真後端のデルタ形の部分が、「オカタの山の神」では左右のラムダ稜が合わさって約60度の鋭い角を形成し、ラムダ稜の何処にも傷(不自然な欠損部)がないのに、「直良頭骨」ではその角が90度に近く、しかも右稜には2個の大きな欠損部(切り傷)があるように見えること(写真が不鮮明なので見間違いかも知れません)、及び頭骨全長に対する頬弓部率(頬弓部幅÷頭骨全長×100)が違うと思われるからです。頬弓部率は「直良頭骨」では58.4%(直良氏が写真から推定した計測値に基づく)で、私が同様にして求めた値も58.7%と大差ないのに、「オカタの山の神」では実測値が55.6%しかなく写真ではそれ以下の値しか得られなかったからです(写真1が53.6%、写真16が54.5%)。写真からの計測値はあまり当てにはなりませんが、頭骨後端部の形態、特にその切り傷は重要だと思います。・・・・・・・・
   1996年8月28日       今泉吉典