ニホンオオカミ剥製標本の改作と新しく とり出された頭骨について

今は絶滅したニホンオオカミ(ヤマイヌ)( Canis lupus hodophilax Temminck)の日本に現存する実物標本3体のうちの1体が、本学に保存されていることは、専門家にはよく知られている。この標本の由来や同定の経緯などについては、これを再発見された本学の末松四郎名誉教授によって報告がなされており、これが、奈良県十津川地方で明治36か37年に捕獲されたものらしいということ以外詳しい来歴は明らかでない(末松、1950;末松、1975;福田、1949)。
 われわれはこの標本を末松教授よりひきついだが、非常に貴重なものであるにもかかわらず、剥製の製作技術が稚拙で形態が不自然なことは大変残念に思われた。また戦前、戦中の管理も不十分であったためか大変汚れていて、このままの状態でこれから長時にわたって保存できるかどうか難しいと考えられた。さらに、学術的には、最も重要である頭骨が剥製の中に入っていて、利用できないことも問題であった。そこで、生物学教室で協議し、京都大学の田隅助教授の教示も受けた上で、製作技術も確かであり、多くの標本の補修の経験もある坂本博志氏(京都市東山区新道小松町)に標本の作り直しと頭骨の取り出しについて依頼することにした。1981年10月に剥製標本が出来上り、頭骨もほとんど完全な形でとり出された(1981年12月)。ここに標本再生の過程であきらかになったこと、および頭骨の計測結果について報告する。
 京都大学助教授の田隅本生博士には、標本の改作にあたっていろいろ御指導いただき本報告の校閲までしていただいた。期して感謝の意をあらわしたい。また標本作製された坂本博志氏、頭骨計測について御教示いただいた東京医科歯科大学柴内俊次博士、ならびに予算の計上に尽力された本学関係者に厚く御礼申し上げる。この報告にあたって、生物学教室の多くの方々の惜しみない協力をいただいた。

    1.      剥製について

はじめに述べたようにこの剥製がいつ頃作成されたかはあきらかでないが、最後の標本といわれる大英博物館所蔵のニホンオオカミが捕獲されたのは1905年(明治38年) であり、本学の標本もこの前後のものとすれば、ほぼ80年経過していることになる。坂本氏の話では、この標本の毛皮の固定には多量の亜砒酸が用いられていたらしい。また頭、尾、四肢以外は針金で形態をつくり、ススキ、シバなどの乾燥葉と綿をつめて作成してあった。これらのことが、長期間を経たものとしては毛皮の状態を良好なものにしてきた原因と考えられる。
 全体の大きさは、まず毛の状態から、四肢の関節があったとみられる部分を明らかにし、前腕と上腕の長さ、下腿と大腿の長さから前後肢の長さを推定し、さらに体の長さを割り出して決めた。これらは全て坂本氏の経験と観察によった。剥製は、樹脂製の型の上に4部分に分けた毛皮をとめつけて作成してある。指を含む手および足と尾は、骨格(長さ約140mm)が入ったままのものをとりつけてある。頭部は、もとの標本で、頭骨と毛皮の間に綿がつめてあったため毛皮がふくらんでしまって居り、頭骨から割り出される本来の形と思われるものに復元することができず、やや丸顔になっているとのことである。なお坂本氏は毛皮の状態から雄であろうと主張されているが、この標本を雌として報告している、末松名誉教授の話では(末松、1950、福田、1949)、当時は乳頭があり、イヌ類の研究者であった故斎藤弘吉氏も雌とみられたそうである(現在では乳頭と見られるものはない)。
新しい剥製では、体色は以前よりやや白っぽくなり、全身ねずみ色がかった白黄褐色の毛に黒紫色の棘毛がある。下毛は白黄褐色である。背面、上腕の外側面の前寄り、および尾の部分には黒い棘毛が多く鮮やかである。口の両側にも黒い毛が生えており、以前心配されていた人工的着色でなかったこともあきらかとなった(末松、1975)。腹部、大腿部、尾などの毛はかなり抜け落ちている。坂本氏によれば、顔面の一部を脱け落ちた毛で補毛したが、他の動物の毛による植毛、彩色などはされていないそうである(写真参照)。
 剥製のおよその大きさは次の通りである(単位mm)。
    体長(頭胴長)・・・・      1,005            体高(頭頂から)・・・     728
   肩高(うなじ部の背方から)・・・   621            体幅(前胴部)・・・        247
        尾長・・・・           224(注1)   耳介(注2) 左・・・   71
                                 右・・・         68
          注1 戦後まもなく先端約100mmほどが切れて失われた(末松、1975)。
          注2      収縮くしている今泉(1982)によれば、典型的なニホンオオカミの大きさは、             頭胴長が 900mmから1,000mm としており、この剥製標本が生前の大き              さの通りであるとすれば最大のもののひとつといえよう。
  2、頭骨標本について 頭骨は、ほぼ完全な形でとり出された。頭蓋骨(skull) 上面では、左鼻骨(nasal) 先端の中心に近い部分がわずかに欠けている。頭蓋骨下面では、底後頭骨(bacioccipital)に7×5mm、左口蓋骨(palatine)に9×4の小さな穴と、左翼状骨(pterygoid)に決失がある。これらは剥製作成の際、針金で固定してあったあとらしい。上顎歯列では、右第3切歯(incisor)と右犬歯(canine)の歯冠部が折れて決失している。下顎骨(mandible)は完全な形でとり出されたが右第2前臼歯(premolar)が欠失している(これは生前かららしい)。
 普通の大きさの雑種の雄イヌと比較した場合、この標本の特徴は次のごとくである。前頭骨(frontal)から鼻骨へかけての顔面は、なだらかで、後頭部の棚状突出部がうしろへ長く伸びだし、また後頭顆(occipital condyles)も突出している。さらに口蓋骨後端正中部が後方へ突出するかわりに、湾入がみられるなどである。これらは従来ニホンオオカミの特徴とされているものである。後頭櫛(occipital crest)も発達している。矢状稜(sagittal crest)も大きく発達しその高さは最大17mm(後部で)もある。頬骨弓(zygomatic arch)は上面からみるとエーレンマイヤーフラスコのように後部でつよく両側へ張っている。
 第1表に各部の計測値を示した。
 計測は、斎藤(1963)の計測法により、ノギス、ディバイダーを用いて行い、単位はミリメートルで表した。測定項目の選定と英名による表現については、Southern(1964)とGoldman(1964)を参考にした。
 これを見ると、直良(1964)の測定した23体のニホンオオカミ-頭蓋の1部しかないものも含めて-のうち、頭蓋最大長の出ている8体のなかで、最大は226、最小は207.0であり、我々の標本より大きいものは3体ある。また、どこかの部分で、本標本より少しでも大きいとみられるものは8体で、本標本はかなり大きい部類に属している。本標本より大きい個体のうち、性別の判明しているものはすべて雄であるので、本標本が雌だとすれば最大であろう。また、金森(1973)の報告にある信州のニホンオオカミは、当方のオオカミとほぼ同じ大きさである。犬歯、下顎第1臼歯(下列肉歯)を比較しても、最大ではないがかなり大きい方である。
 直良はいくつかの頭骨の計測をもとに、頭蓋最大長と頬骨幅の比を検討している。6体のその値の範囲は、1.59から1.83で、平均値は1.72である。当方のそれは、1.78で、全体からみるとやや細面のオオカミであったらしい。同様に、直良の計算値から頭蓋最大長に対する歯の長さを産出して比較すると、まず、犬歯については、0.052から0.073で平均0.060(6体)、下顎第1臼歯では0.115から0.127で平均0.121(5体)で、当方のそれは、犬歯0.063、下顎第1臼歯0.118(左9と0.121(右)で、まずニホンオオカミとして平均的な大きさの歯を備えていたといえよう。歯の大きさには、かなり個体差があり、頭骨に対する歯の大きさについては、小さい個体の方が若干大きくなる傾向にあった。
 さて、ニホンオオカミは、小形であるといわれている(直良1964、今泉1982)。頭骨について比較すると、日本近周産地のオオカミ、すなわちシナオオカミ(今泉ではチョウセンオオカミ)、(C.l.chanco)、マンシュウオオカミ(C.l.subsp)、シベリアオオカミ(C.l.albus)は、ニホンオオカミよりかなり大きい(直良.1964)。アメリカ産オオカミC.l.tundrarum、C.l.pambasileus、C.l.alces、C.l.occidentalis、C.l.hudsonicus、C.l.arctos、C.l.labradorius、C.l.beothucus)はさらに大きく、頭蓋最大長は平均254(C.l.beothucus)から283.1(C.l.pambasileus)である。(Goldman、1964)。しかし頭蓋最大長と頬骨幅の比をとってみると、これら8個の平均値は1.82から1.99の間にあり、アメリカのオオカミの方がニホンオオカミよりも頭蓋骨の幅がせまい。
 ニホンオオカミの特徴のひとつは、下顎第1臼歯が大きいこととされているが、アメリカの8種のオオカミのそれも非常に大きく、最大のものは平均32mm( C.l.tundrarum)もある。
頭蓋最大長に対するこの歯の長さの比をとると、0.109(C.l.pambasileus)から 0.117(C.l.tundrarum) であり、ニホンオオカミの値は、0.115から0.127、平均値は0.121(5体)であって、アメリカ産のオオカミよりも大きい。他の歯、例えば、上顎第4前臼歯や、上顎第1臼歯が頭蓋最大長との比において、アメリカのオオカミもニホンオオカミもあまり差がない-P4、0.09(C.l.labradorius)から0.103((C.l.beothucus)、0.095(C.l.hodophilax)、M1、0.060(C.l.tundrarum)から0,069(C.l.hudsonicus)、0.067、(C.l.hodophilax)-ことから、ニホンオオカミは、頭蓋骨に比較してきわだって大きな下顎第1臼歯をもつことがたしかめられ、またその特徴を備えている当標本は、ニホンオオカミのものとみてよいと思われる。
 これまで、外観からニホンオオカミと同定されていた剥製標本から、今回はじめてとり出された頭骨標本について、以上概略的な検討をこころみたが、これが代表的なニホンオオカミの特徴といわれる顔面及び口蓋骨後端の形状、きわだって大きな下顎第1臼歯を備えていたことは、きわめて重要なことと考えられる。今後は、専門家によってさらに詳細な検討がなされることを期待している。 
     
      第1表 頭骨の計測値(Cranial and dental measurements of a Japanese wolf specimen                                               preserved in Wakayama University)

                                   測定値 斉藤の測定( )内は右による番号 
頭蓋 Skull mm 最大長           Greatest length (1) 基底長 Basal length (3) 基底最大長(後頭顆を含む) Condylo basal length (6) 頬骨幅 Zygomatic width (8) 乳様突起間幅 Mastoid width (36) 全頭骨後眼窩間最小幅 Width of post orbital constriction (40) 両眼窩間最小幅 Width of interorbital constriction (42) 吻幅 Width of rostrum - 口蓋長     Palatal length(86) 上顎歯槽縁最大幅 Width of upper teeth (115) 頭蓋後部高 Maximum depth of brain case (154)下顎骨 Mandible 下顎骨全長 Length of mandible (2) 下顎骨全長(正中面に並行に測定) Length of mandible - 下顎枝高 Hight of mandiblar ramus (3)歯  Teeth 上顎全歯列長(正中線上における) Length of upper tooth row (36) 上顎頬歯列全長(犬歯前縁より) Length of maxillary cheek tooth row (37) 上顎犬歯最大長 Upper canine crown length (6) 上顎犬歯最大幅Upper canine crown width (6′) 下顎犬歯最大長 Lower canine crown length 13.8(14.2)(6) 下顎犬歯最大幅Lower canine crown width 10.1(11.0)(6′) 上顎第4前臼歯長 Upper carnasial crown length 21.0(22.0)(24) 上顎第4前臼歯幅 Upper carnasial crown width 11.0(12.3)(24′) 上顎第1臼歯長 First upper molar antero posterior diameter15.6(14.8)(28′) 上顎第1臼歯幅 First upper molar transverse diameter 20.8(21.2)(28′) 下顎第1臼歯長 Lower carnasial crown length 26.0(26.7)(56) 下顎第1臼歯幅 Lower carnasial crown width of M1 10.1(10.1)(56′)参考文献
  今泉吉典:(1982) イヌの起源とイヌ科の動物たち。遺伝、36(5)、4-8.
 福田信正:(1949) 再びヤマイヌの所蔵標本について。採集と飼育、11.45。
 Goldman,E.A:(1964)Classfication of Wolves;“Yhe wolves of North America.
                               (Young,S.P.and E.A.Goldman).Dover pub.Inc.
  金森正臣:(1973) ニホンオオカミの頭骨の計測。「日本哺乳類雑記第ニ集」(宮尾嶽雄編).
                          97-98、信州哺乳類研究会。
  直良信夫:(1965) 日本産狼の研究、校倉書房。
 斎藤弘吉:(1963) Osteometrie Der Caniden(犬科動物骨格計測法)、国際文献印刷社
 Southern, H, N;(1964)  Measurment of skulls.“Handbook of British Manmals,Ist ed”
                                 122-128。
 末松四郎;(1950) 新やまいぬ標本、和歌山大学教育学部紀要、学芸研究1、85-87。
 末松四郎;(1975) 幻獣、異木、奇藻、その1ニホンオオカミ考、「燈藻、末松四郎退官記念論文集」、5-27。