福井城内で射殺されたニホンオオカミ

1905年(明治38年)1月、奈良県東吉野村鷲家口で捕獲されロンドン自然史博物館に所蔵されている毛皮標本が、canis hodophilax(ニホンオオカミ)最後の記録として定説化され現在に到っているのは御承知の通りである。 過去において幾多の標本が提示され消えていったのだが、この度その中の1例に於いて新たな事実が入手され、それを基に再考察するに及んで上記の定説が覆される事となった。
私たちは 吉行 瑞子 .今泉 吉典両博士了解の下ANIMATE 第4号 別刷に発表された論文を此処に掲載するものである。

吉行 瑞子  前東京農業大学教授
         現国立科学博物館客員研究員

今泉 吉典  元国立科学博物館動物研究部長
         現国立科学博物館名誉館員 
         「分類から進化論へ」等著書多数
福井城内で射殺されたニホンオオカミ

吉行 瑞子 1 今泉 吉典 2
 1.・国立科学博物館客員研究員、 2.国立科学博物館名誉館員
Record of Canis hodophirax Temminck, 1839 captured in the garden of the Castle of Fukui, Fukui Prefecture, japan.

Mizuko Yoshiyuki 1 and Yoshinori Imaizumi 2
1. Research Fellow. Department of Zoology, National Science Museum,Tokyo
2. Emeritus Curator. Department of Zoology, National Science Museum,Tokyo

1. はじめに
 明治43年に福井県福井城内松平試農場で射殺されたオオカミの標本は戦災で焼失されている。 その他の情報についても少ない。 したがって、この個体について報告された文献も1枚の動物の写真に基づくもので、主観的な不十分なものが見られるにすぎない(直良(1965)、平岩米(1981)、平岩由(1988))。
 このたび、我々は残っている2枚の写真「動物自体(Fig,1)と捕殺者2名と動物が共に写されたもの」の他に射殺後の経過を示す重要な松平試農場の雑日記、報告書などを入手した。そこでこれらを示し、参考に供し、考察をすることにする。
Fig,1
The Japanese wolf, Canis hodophirax Temminck, 1839 captured in the garden of the Castle of Fukui, Fukui Prefecture, japan. Photo by the deceased Mr,Sadakichi Noji in Takefu City ,Fukui Prefecture, japan.

2. 1962年.(昭和37年)1月19日開催の第61回日本哺乳動物学会例会
  今から41年前の1961年(昭和36年)の12月5日。福井新聞夕刊に福井城内で射殺されたオオカミの写真(Fig.1)がとりあげられた。この写真は当時武生市村田町在住の写真家野路定吉氏が撮影され、福井市立歴史館に提供されたものである。
鑑定の依頼を当時上野動物園園長の古賀忠道博士から今泉が引き受け、学会の例会を開いて専門家の多数の意見を求めて決める事を約束した。
 翌年の1962年(昭和37年)1月19日の日本哺乳動物学会第61回例会で検討することになった。題目は「明治末福井で捕獲されたオオカミらしき動物の写真の鑑定」。会場は当時当学会の事務局があった台東区上野公園国立科学博物館の会議室であった。専門家約20名の出席のもとで検討された。
 ディスカッションの結果、家畜のイヌではなく、オオカミであることは出席者全員が認めるところであった。この時点で参考になった資料は、Fig.1の写真のみであった。写真で見る限り、次の主な理由からチョウセンオオカミだろうというのが斉藤弘吉、平岩米吉両氏はじめ多くの会員の意見であった。
すなわち、その1つは、ニホンオオカミ(ヤマイヌ)は1905年(明治38年)1月23日奈良県吉野郡東吉野村の鷲家口(現在は小川)で捕獲されたのが最後の記録としての定説になっている。
 その2は、外形から見て、日本のニホンオオカミよりも体長が長く、大型のように見える。
 その3は、明治35年頃から、巡回動物園が各地で興行していたから、そこのチョウセンオオカミではないかという意見があった。1910年(明治43年)7月30日。移動中にオオカミが逃亡したのが、5日後福井城内で射殺されたオオカミではないだろうか。このような1枚の写真故に単純な結論の導き方でもやむを得ないが、疑問も残されていた。

3. 鳥獣画家の小林重三氏に関する記事
 第61回日本哺乳動物学会が開催されてから34年後の1996年(平成8年)に、今泉は「国松俊英」著 鳥の絵を描き続けた画家の記述に、鳥獣画家として日本の鳥学会に貢献が大きかった小林重三さんが、福井市松平試農場の職員として赴任されていたということと、そこで松平試農場でのオオカミ捕殺の記述に接した。その後、更なる詳しい資料や文献の探索などから、重要な説得力ある資料を入手した。これらの1部は1999年(平成11年)11月24日の福井新聞にとりあげられたが、明治43年の貴重な得難い正確な松平試農場の雑日記には目を通していなかった。以下は明治43年の松平試農場の雑日記から。

4.「明治43年の松平試農場雑日記」から
 オオカミに関する記述。達筆な縦書きの行書で墨字で記述されているため、判読できない部分があるが、その部分は○○で示しておく。それ以外は原文のままである。
明治四十三年八月四日 雷雨后晴狼捕殺昨三日野犬城内二入レリトノ報アリ○○ニテ捜索セシモ発見セズ然ルニ夕暮ニ至リテ宿舎附近ニ現ハル故ニ折節在場ノ佐竹、奥谷両助手及稲垣研究生ノ三名外ニ一、ニ名手伝ヒテ包囲奥谷ハ銃ニテ射止メ佐竹、稲垣両名ニテ打撲シ遂ニ捕殺ス即チ巨大ナル◆似シモ体重五貫目ナリ傳ウ去ル数日前鯖江ニテ小児数名ヲ傷ケタルモノト逃レテ○ニ至レルモノナリト言フ。本日本邸ニ於テ写真セラレタリ。(以下省略)

5. 友永富氏執筆の「松平試農場誌(二)」第2節と同様に、関連のあるところのみ原文のまま以下に記述する。
 1910年(明治43年)8月3日には野犬が福井城内に潜入したとの情報が伝わり、伝習生が総出動して捜索したが発見されなかった。ところが夕方になって寄習舎付近に現れたため、ちょうど現場付近にいあわせた奥谷奥之助助手が銃で射止め佐竹正継助手、稲垣正夫研究生の両名がこん棒でうちたたき捕殺した。
 7月30日小浜で興業中の矢野動物館が汽車で小松に向う途中満州産と称する灰色のオオカミ1頭が今庄—鯖江間で逃亡した事件があり、このことがあってから舟津村小黒町、有定、福井市西端小山谷村等で子ども数名が傷つけられ大騒ぎしていた時期でもあり、四日、朝福井中学動物学教諭羽金準一郎の鑑定を求め
た。その結果は純粋の日本オオカミであるが矢野動物館のものかどうかは不明であった。一方同日午後矢野動物館員の松尾嘉蔵来福し調査の結果同館所有のオオカミでないことが明らかとなった。当時このニューは「オオカミ城内を荒らす」と題し大々的に扱われた。写真は康荘の撮影した福井県最後のオオカミである(この写真は本誌Fig.1とは別のものである)。
 これについて試農場は奥谷奥之助に柳行り一組と園芸調査書一冊を佐竹正継、稲垣正夫氏の両名には柳行り一組ずつをあたえて賞し松平邸からも三名に対し賞賜があった。日本では三十八(1905)年一月二十三日に大和鷲家口でアメリカの探検家マルコルム、プレイヤ.アンダソン一行がオオカミ一頭を八円五十銭で買い求めたのがこの絶滅種の最後の個体として著名のもので、わが国では三十八年前後にオオカミが絶滅したとされている。
もし今日まで福井のオオカミの標本が保存されていれば、貴重な学術的資料になったであろうと思われる。

6.考察
 振り返ってみると、1961年(昭和37年)の哺乳動物学会において、このような状況が明らかであれば、結論は異なっていたことだろう。

a) 射殺された個体の唯一の客観的な数値は体重の記録で5貫目なりという。メートル法に換算すると18,75kgで軽い体重である。一般に体重は性、年令、地理的変異がみられる。また、体重の記録も少ない。金正萬(1973)によると朝鮮半島のそれが25~45Kgとされているので、福井のものは範囲の最小値よりも軽い数値を示している。体重からすると小振りなオオカミであろう。他に外形の測定値が残っていないのは残念であるが、チョウセンオオカミとする1つの理由の大形であるとの理由は体重から判断する限りあてはまらない。

b) 第4節の最後の3行に数日前、鯖江にて小児数名を傷つけた個体が城内に入ったものではないかと記載されているが、第5節の友永氏の報告では8月4日午後に矢野動物館員の松尾嘉蔵氏が、福井城で射殺された個体を調べて、逃亡した矢野動物館で飼育していた個体ではないとの解答を得ている。
  次に8月4日朝に福井中学動物学教諭羽金準一郎氏によって純粋のニホンオオカミと鑑定された。

c) 筆者等は羽金準一郎氏がニホンオオカミと鑑定されたことを評価したい。福井城のニホンオオカミの体重が示すように小型、前後肢は頭胴長に比べて相対的に短く、尾はかかとに達し、尾端部は先細を呈しないことはTemminck(1839)が記載したニホンオオカミ的に固有の重要な特徴である。吻が以外に長いのはニホンオオカミを否定するものではない。

d) これまで、ニホンオオカミの頭骨や歯の写真などは多数発表されているが、剥皮前の成息時の体形を示す写真は皆無である。
 Fig1の写真は福井城のニホンオオカミを射殺後、多少人工的にポーズをつけた姿で撮影されたものではあるが、生息時の体形を示す貴重なものであると思う。

e) ニホンオオカミCanis hodophirax は Pocock(1935)が考えたようなタイリクオオカミ Canis lupus の1亜種ではなく、全く別種で、頭骨には顕著な違いがある。吻上面と頭頂面は一般に凹形に交差し、ニホンオオカミのように凸形を呈することは少ない。チョウセンオオカミC.l.chanco(朝鮮、満州、中国、チベット等に分布)も明らかに凹形。また、吻はタイリクオオカミでは上の犬歯間の距離が広く、門歯の突出度は顕著で、太く且つ短いが、ニホンオオカミではその反対で、吻が細く且つ長い傾向がある。写真はこのようなニホンオオカミの特徴をよく示していると思う。

7. 謝辞
 本報告をまとめるにあたり、国立歴史博物館の春成秀樹博士、大妻女子大学講師の小原巌様、ならびに秩父宮記念三峰山博物館客員研究員の八木博様には情報の蒐集に心からのご協力をいただきました。なお、松平試農場の雑日記(1910)の入手は八木博様のお骨折りによります。また、長岡郁生様および井上百合子様にもお世話になりました。ここに感謝して御礼を申し上げます。

8.引用文献
平岩 米吉   1981 狼その生態と歴史  動物文学会 310pp
平岩 由伎子  1988 矢野巡回動物園の狼 動物文学 244号10-12
国松 俊英   1996 鳥を描き続けた男  鳥類画家小林重三 品文社 294pp
金 正萬    1973 昌慶苑夜話     省文社 504pp
松平試農場   1910 雑日記
直良 信夫   1965 日本産狼の研究   校倉書房 290pp
Pocock, R.I. 1935 The races of Canis
lupus.Proc.Zool.Soc.London,1935,647-686
Temminck,C.J. 1839 Over de Kennis en de Verbreiding der Zoogdieren Van
Japan.
Tijdschrift voor Natuurlijke Geschiedenis en
Physiologie,Pt.5,284.
友永 富    1967 松平試農場誌、福井の農業11月号 48-51.